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昭和60年7月5日(1985) 白馬岳大雪渓にて  青いシャツのH君と
昭和60年7月5日(1985) 白馬岳大雪渓にて  青いシャツのH君と

 古い話だが、昭和50年(1975年)頃、あることから手話サークルに入会し手話を学んだ。勿論そこには[ろうあ者][健常者]合わせて40~50名位の老若男女が、まじめに勉強し活動もした。

 

 勉強会が終わると、交流会として希望者は近くの喫茶店に行き親交を深める。積極的に学び数年経つと手話もそこそこ通じるようになる、そうなるとソフトボール大会、泊まりでスキーの参加等も楽しくなる。ある時、[ろうあ者]で4歳年下のH君と交流会で出会い仲良くなった。

 

 H君がサークルに来ると、時々2人で喫茶店には行かず飲み屋に直行し、山の話等で盛り上がった。彼は1人でも山に行くらしい、小生も1人でも行くが家族で行ったりで、年一回位の山行。お互い登山技術は我流で本を読むくらい。当市発行の[市政だより]に登山教室があり2人で入会して“いろは”を少し学ぶ。

 

 小生の手話技術は日常会話くらいは何とかできるという位で、山へ行きたい気持ちもあり、彼の誘いで一泊二日の白馬岳~乗鞍岳へ、彼と2人で行った。

  

 次の機会、また彼が梅雨明けの土日、一泊二日の奥穂高岳山行を企画した。

 新宿から夜行バスで上高地へ、そして涸沢ヒュッテをめざし歩き出す。(上高地からヒュッテまで歩程約6時間20分)ヒュッテまであと1時間半くらいの頃、左ひざが痛みだしたが、何とか着き宿泊の手続きを済ます。寝るときである、スタッフが布団を敷き始め、そこへ枕を間をあけずに置いていく、宿泊者が多いから仕方がないと思ったら反対側にも枕を並べ始めた、(エー!!混んでいるのは解るが布団一枚で4人?)寝ると両脇に人の足が・・・・

 

 早朝、H君が小生の肩をたたいて起す、手話で“何”って言うも暗くてお互い良く見えない(コミュニケーションがとれない)、するとH君が小生の手をとり、手のひらに字を書く、しかし寝ぼけもあり何が言いたいのか解らない。“エー!!何ともならない”。

 

 床から出て薄明るい所で、やっと会話成立。

朝食後、小生は膝が痛むのでやむなく撤退、バスターミナルで落ち合う約束をして、彼は奥穂高岳へ。

 

 帰路、あまりの痛さで駅の長い階段を後ろ向きで降りた。

 

 後日、病院で診てもらうと、先生がレントゲン写真を見ながら

「膝関節の隙間が狭い、老人の膝みたい」

「膝が痛むの、何とかなりませんか?」

「痛くなるような事を、しなければいい」

 (エー!!)

 

 

 ある時、居酒屋でH君と飲んでいる時、彼がピッケルを出して見せた。雪山への誘いだとすぐ分ったが膝痛の件と、妻から強く[雪山]行きを反対されている事もあり、一緒に雪山へ行くことはなかった。

 

 その彼は病と闘ったが、 平成18年(2006年)春に49歳で他界した。

 

 昨今、[雪山]行き絶対反対の妻と雪山入門コースを楽しく歩くと、いつも“たら・れば”が頭の中をよぎる。